2009年06月16日

ピクルス (pickles) は漬物のこと

ピクルス (pickles) は漬物のこと。ただし日本では、日本風の漬物はピクルスとは呼ばない。picklesは複数形で、漬物の意味では複数形を使う。

代表的なピクルスは、塩漬けにしたキュウリなどの野菜を、酢、砂糖などからなる漬け液につけ込んだもの。乳酸菌により発酵させる。酢を使うことで発酵させる工程を省略することもある。野菜の塩漬けを作る際に、何らかの原因で発酵したものがピクルスの起源とする説がある。

アメリカ合衆国では、ガーキンスなどのキュウリのピクルスが市場の大半を占めており、ピクルスと言えば、キュウリのピクルスを指し、ハンバーガーによく用いられる。スパイスを効かせた砂糖液に漬け込んだり、ディルというハーブと一緒に漬け込んだり、ディルとニンニクを漬け込んだものがある。ホットドッグのトッピングとしてよく使われるレリッシュピクルスは、砂糖液に漬け込んだものを刻んだものである。 ピクルスの漬け液には砂糖・酢・塩の他に蜂蜜や、唐辛子などの香辛料を混ぜることも多い。

イノンド(蒔蘿、Anethum graveolens)はセリ科の一年草。英名はディル (dill)。種子や葉を香味料や生薬として用いる。
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イノンド属 (Anethum) に属する唯一の種であるが、稀にカワラボウフウ属 (Peucedanum) に分類されることもある。西南アジアから中央アジアが原産。成長すると高さ40-60cmに達し、細い茎には細かく裂開した柔らかな葉が互生する。成長した葉は長さ10-20cm、幅1-2mmほどとなる。花は白か黄色で、2-9cmほどの小さな繖形花序をつくる。種子は長さ4-5mm、厚さ1mmほどで、直線またはやや湾曲した形をしており、表面は縦方向に波状のうねりをもつ。

英名 (dill) はノルウェー語またはアングロサクソン語で「なめらかな」あるいは「あやす」を意味する言葉「dylle」に由来すると考えられており、これはこの植物が駆風薬として痛みを和らげる作用を持つためである。

イノンドは薬草として古くからヨーロッパ・北アフリカ・アジアで栽培されてきた。5000年前にはエジプトの医師に使用されており、またイギリスにあるローマ時代の廃墟からもその痕跡が見つかっている。また、中世には魔術を防ぐ効果があるとも考えられていた。

イノンドはセム系言語では「シュビット」と呼ばれており、タルムードには十分の一税をイノンドの種子、葉、または茎で支払うことと命じた箇所がある。新約聖書にはパリサイ人がイノンドで税を支払っていたことを記述する場面がある(「マタイによる福音書」23章23節)。

シダ状の葉にはキャラウェイのような芳香があり、今日でも香草として、グラヴラクス(酢漬けの鮭)、ボルシチなどのスープ、ピクルスなど、様々な料理に使用されている。ただし、イノンドの葉は乾燥するとすぐに香りが失われてしまうため、新鮮なうちに使用する必要がある。

種にも強い香りと味があり、スパイスとしてカレーやピクルスなどに使用する。また、種は薬用としても使用される。

オリーブのピクルスは、マティーニの必需品である。

イギリス [編集]
イギリスでは、主にタマネギをピクルスにする。また、鶏卵のピクルスもあり、これらはフィッシュ・アンド・チップスを売っている店でよく売られている。

2009年05月30日

高台院

高台院(こうだい いん、天文11年〔1542年)〕?[1] - 寛永元年9月6日〔1624年10月17日〕)は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の妹。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

一般には北政所(きた の まんどころ)という通称で知られる。「北政所」と呼ばれた人物は歴史上数多く存在したが、彼女以後にこの通称は彼女と不可分のものとして知られるようになった。

諱には諸説ある。一般的には「ねね」とされるが、夫・秀吉や高台院の署名などに「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記があるため、「おね」と呼ばれることも多い(後述参照)。また甥にあたる木下利房の備中国足守藩の文書『木下家譜』やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。

従一位を授かった際の位記には豊臣吉子の名があるが、これは夫・秀吉の名を受けたもの(諱を参照)。法名は高台院湖月心公。

尾張国の杉原助左衛門定利の次女として生まれる。

叔母の嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野又右衛門長勝の養女となる。永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日(秀吉妹・朝日姫とは同名の別人)の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。その後、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。2人の間には子供が無かったので、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。その中でも加藤清正と福島正則は特に有名。

永禄11年(1568年)頃から数年間は、岐阜に在住。この間、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾をとり、石松丸秀勝をなしている。

天正2年(1574年)、長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ秀吉の生母・なかと共に転居した。この後は遠征で長浜をあけることの多い夫に変わり、城主代行のような立場にあった。

天正10年(1582年)の本能寺の変の際には近江長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。幸い、間もなく山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破ったので長浜に帰り秀吉と再会する。その後、秀吉と共に大坂城に移り天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所と称する。関白の妻として、朝廷との交渉や人質として集められた諸大名の妻子を監督するなどの役割を担った。

天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇が聚楽第に行幸、その還御の4月19日(5月14日)には従一位に陞叙。

文禄元年から始まった文禄・慶長の役への日本の補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の印のある書状を必要とする体制が築かれた。
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慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して秀頼の後見にあたった。慶長4年(1599年)、大坂城西の丸を退去し(西の丸には徳川家康が入っている)古くから仕えてきた孝蔵主らとともに京都新城(現在仙洞御所がある場所)へ移り、朝廷との交渉や豊国社や方広寺の運営・供養などの任にあたった。関ヶ原の戦い後に京都新城が破却されると三本木の屋敷(祇園)に隠棲した。秀吉から与えられていた大名並みの1万5000石にものぼる広大な領地は化粧料として引き続き安堵されている。

慶長8年(1603年)、養母の死と秀吉の遺言であった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、高台院湖月尼と称した。慶長10年(1605年)、秀吉の冥福を祈るために家康に諮り京都東山に高台寺を建立、ここを終焉の地と定めた。慶長20年(1615年)、大坂の役で豊臣宗家が滅亡した後も江戸幕府の保護を受けていた。

寛永元年9月6日(1624年10月17日)に死去。年齢については先述のように諸説あり、享年は76、77、83などの説がある。晩年、木下利房の息子の1人である木下利次を養子としてむかえていたためその所領の一部である3000石が利次に継承された。

高台院

高台院(こうだい いん、天文11年〔1542年)〕?[1] - 寛永元年9月6日〔1624年10月17日〕)は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の妹。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

一般には北政所(きた の まんどころ)という通称で知られる。「北政所」と呼ばれた人物は歴史上数多く存在したが、彼女以後にこの通称は彼女と不可分のものとして知られるようになった。

諱には諸説ある。一般的には「ねね」とされるが、夫・秀吉や高台院の署名などに「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記があるため、「おね」と呼ばれることも多い(後述参照)。また甥にあたる木下利房の備中国足守藩の文書『木下家譜』やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。

従一位を授かった際の位記には豊臣吉子の名があるが、これは夫・秀吉の名を受けたもの(諱を参照)。法名は高台院湖月心公。

尾張国の杉原助左衛門定利の次女として生まれる。

叔母の嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野又右衛門長勝の養女となる。永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日(秀吉妹・朝日姫とは同名の別人)の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。その後、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。2人の間には子供が無かったので、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。その中でも加藤清正と福島正則は特に有名。

永禄11年(1568年)頃から数年間は、岐阜に在住。この間、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾をとり、石松丸秀勝をなしている。

天正2年(1574年)、長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ秀吉の生母・なかと共に転居した。この後は遠征で長浜をあけることの多い夫に変わり、城主代行のような立場にあった。

天正10年(1582年)の本能寺の変の際には近江長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。幸い、間もなく山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破ったので長浜に帰り秀吉と再会する。その後、秀吉と共に大坂城に移り天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所と称する。関白の妻として、朝廷との交渉や人質として集められた諸大名の妻子を監督するなどの役割を担った。

天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇が聚楽第に行幸、その還御の4月19日(5月14日)には従一位に陞叙。

文禄元年から始まった文禄・慶長の役への日本の補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の印のある書状を必要とする体制が築かれた。
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慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して秀頼の後見にあたった。慶長4年(1599年)、大坂城西の丸を退去し(西の丸には徳川家康が入っている)古くから仕えてきた孝蔵主らとともに京都新城(現在仙洞御所がある場所)へ移り、朝廷との交渉や豊国社や方広寺の運営・供養などの任にあたった。関ヶ原の戦い後に京都新城が破却されると三本木の屋敷(祇園)に隠棲した。秀吉から与えられていた大名並みの1万5000石にものぼる広大な領地は化粧料として引き続き安堵されている。

慶長8年(1603年)、養母の死と秀吉の遺言であった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、高台院湖月尼と称した。慶長10年(1605年)、秀吉の冥福を祈るために家康に諮り京都東山に高台寺を建立、ここを終焉の地と定めた。慶長20年(1615年)、大坂の役で豊臣宗家が滅亡した後も江戸幕府の保護を受けていた。

寛永元年9月6日(1624年10月17日)に死去。年齢については先述のように諸説あり、享年は76、77、83などの説がある。晩年、木下利房の息子の1人である木下利次を養子としてむかえていたためその所領の一部である3000石が利次に継承された。

2009年04月27日

現代の歩兵と塹壕

現代戦でも、歩兵は拠点の制圧や防衛に欠かせない兵科として運用されている。拠点を精密に攻撃する兵器の登場により、格好の標的とされやすい要塞やトーチカは、歩兵の防御戦闘では既に意味の無いものとなっている。逆にそうした兵器は、広範囲に分散して塹壕に潜む歩兵部隊に大きな損害を与え難いとされる。

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核兵器ですら防護服に身を包んで広範囲の塹壕に散らばる歩兵を一掃するには至らない。分散した歩兵大隊を倒すのに、戦術核兵器を幾つも使用することは、費用対効果の面で非常に無駄が多い。また核兵器を実戦で運用すれば、国際社会から非難を浴び、戦争行為そのものの意味が失われる。

その一方で、戦術核兵器並みの威力で核汚染の無い・また戦術核と比較しても安価な燃料気化爆弾の登場は、次第にこれら塹壕の存在意義を脅かしつつある。この爆弾は、広範囲に大幅な気圧の変化を伴う衝撃波を発生させ、塹壕内の兵士を圧死させてしまう。また近距離では莫大な熱量を瞬間的に発生させ、これによる被害も大きいとされる。

なお1990年代の湾岸戦争において、他に援護されたブルドーザーブレードを装着した戦車により、イラク軍の塹壕を埋め立てる作戦が行われた。この作戦は塹壕戦における新しい脅威と言える訳だが、逃げ遅れたイラク軍兵士の一部が生き埋めとなったという報告があることから、人道上において忌み嫌われる「戦争行為を逸脱した残虐な殺害」に当たるのではないか、と米国内で議論となっている。

2009年04月10日

オーボエダモーレ

オーボエ・ダモーレ(Oboe d'amore)はオーボエ属に分類されるダブルリードの木管楽器の一種。音域的にも構造的にもオーボエとイングリッシュホルンの中間的な存在であり、形状はどちらかといえばイングリッシュホルンに近い。直訳するとイタリア語で“愛のオーボエ”"の意。通常のC管オーボエに比べて、ややくぐもった柔らかい音色を持つ。

楽器の先端部がイングリッシュホルン同様卵を呑んだ蛇のように丸く膨らんでいるのが外観的な特徴である。その他、運指や吹奏方法は三者共通であって、オーボエ奏者が演奏する。

イ調の移調楽器で、記譜された音から短3度低く鳴る。ただし、オーボエの最低音変ロ(B♭)音に相当する音(実音ト(G))は持たない機種も多い。オーボエ属のアルトあるいはメゾソプラノに相当する。通常のオーボエより短3度低い音域だが、明るい音色で高音域がよく通るオーボエに対して、通常ではかすれた音になりやすい低音域がふくよかに鳴ることから、移調にしても低めの音域を担当することが多い。また、同じシャープ系のD管であるバロック・フルートとの相性がよい。

元来はバロック期後半に用いられた。1720年頃ドイツで発明されたと言われる。特にヨハン・ゼバスティアン・バッハが好んで用いたことで知られ、『ミサ曲 ロ短調』BWV232、『マタイ受難曲』BWV244や、多数の教会カンタータ作品の伴奏、オブリガートにおいて重要な役割を担っているまた、テレマンもこの楽器のための協奏曲などを多く残している。

古典派期以後長く忘れられていたが、近代になってモダン・オーボエの技術を応用して再興され、バッハなどの演奏に使われるようになった。また近代音楽ではラヴェルの『ボレロ』、リヒャルト・シュトラウスの『家庭交響曲』、ドビュッシーの『管弦楽のための映像』などに用例がある。今日バロック音楽の演奏では、当時の様式を復元した楽器も古楽系の楽団で用いられている。

インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア


2009年03月26日

スカトロジー

スカトロジー(英語:Scatology)とは古代ギリシア語で糞便を意味する「スコール(σκωρ,属格形は σκατος で、ここより skato- の形で連結形となる)」と「談話集」などを意味する「ロギア(logia)」の合成語で、糞・尿に対する研究・考察を言い、日本語では「糞便学(ふんべんがく)」とも言う。糞尿に関するユーモアの事や、糞尿に愛玩的な興味を持つ趣味、性的嗜好も指す。なお糞尿趣味を指す場合はスカトロと略される事もある。これらに関係する人間を指してスカトロジストと呼ぶ。

狭義のスカトロジーには、最も基本的な排泄という生物の機能に関して研究する生物学的分野、人間心理の研究における観察と考察を重ねる哲学・心理学的な分野と、糞便にまつわる文化・芸術に関して研究する社会学的な分野、更には各々の文化圏と糞便のあり方を観察・分類する文化人類学や民俗学上の分野など多岐に渡り、「生命とは何か、人とは何か?」という最も根源的な命題を糞便にまつわる事象・現象・心理を探求する事によって得んとする物である。

広義のスカトロジーは「糞便を通して享楽を追及する」という、「特殊な性癖」によって行われるモノ・行動である。勿論、知識も人間に享楽を与え得る物である以上、狭義のスカトロジーも広義のスカトロジー同様に、快楽主義的な欲求に基づく物であると考える向きもある。なお糞便愛好に関しては糞尿愛好症の項を参照されたし。

生物学とスカトロジー [編集]
特定の動物を研究する上で、糞便や尿は、その生物を知るために欠く事の出来ない情報を含んでいる。食性から体機能、果ては習性や本能的な行動に到るまで、糞便から学べる物は多い。また医療分野においては、排泄物は健康状態を知る上で、身体表面の見た目上の色つやに次いでもっとも得やすく、また多くの事が判る資料である。古代生物学においては、既に死滅した生物の残した糞便の化石から、食性や習性などが判明している。

人間心理とスカトロジー [編集]
人間にとって糞便や尿は、日常的に目にする物であると共に、衛生面から見て決して好意的には語られない物であるが、人格形成においては、幼児期の最も基本的な社会性の教育課程である排泄訓練を通して、個人の秘密や主体性の確立といった成長を遂げる。

個人や自我という概念は、他人と自身の間にある種の意識面における敷居を設け、自分だけの秘密を持つ事から始まるが、排泄行為とは、排泄物を個室にこもって出し、自分で処理(水洗便所においては、排水する事で下水などに流す作業)する事で、世間一般の社会から自分の排泄物を隠す作業(儀式)に他ならない。故にこれらの行為を通じて、人は世間に対して、一定の秘密を持つ事になる。結果、排泄訓練教程を終えた児童は、等しく自己と他人の存在を意識し、自我とその他の間に境界を築き始める。

その一方で、排泄行為やそれら生理現象によって派生する事態は性別の区別無く、性的な発育段階においては様々な偶発的事件により、性的興奮を覚える切っ掛けになる事も多く、自身の放尿や排泄行為に性的な快感を覚える者や、他人のこれら行為に性的興奮を催す者も少なくは無い。特に排泄行為は最もプライバシー上で他人に侵される事の厭われる物であるため、ある種の支配欲の変形として、他人のこれら行為を見たがる者もある。

社会学とスカトロジー [編集]
糞便にまつわる文化・芸術面での活動は、しばしば「不潔で下賎な物」とされるが、人格形成において排泄行為の及ぼす影響から鑑みれば、決して軽んじる事が出来ない。中には感情面での激情を、糞便の意外性を持って表現せしめる芸術活動も存在し、またこれら傾向は文学や、もっと大衆的な漫画の表現上においても見出す事が出来る。

文化人類学・民俗学とスカトロジー [編集]
糞尿の…というより、それらの処理に関しては、様々な文化圏において、多種多様な方法が存在する。現代の日本においては、これら糞尿は水洗便所をもって社会から隔離され、人目に触れないように処分される地域も多いが、一部地域では汚水升に溜めた物を専用の車両を使って回収し、処分場に運搬している。また各家庭で浄化槽を配置し、それらの設備を使って各戸で細菌により処理させている所も多い。しかし近代までは、これら屎尿は貴重な農耕肥料としての資源として扱われ、江戸時代においては金銭で売買される事もあった。ちなみに屎尿にも等級があり、最上等は武家屋敷のもの、最下等は牢屋のものであったという。

今日の先進国と名の付く国々では、食糧生産にこれら人間の屎尿をあまり用いなくなった事情から、軒並み人糞の価値は廃棄物扱いだが、場所によっては家畜や水産養殖の飼料として、トイレをそれらの施設に併設する所もある。

経済発展のバロメーターとしても捉える事が出来るが、地域の気候風土によっては、他地域で取られている処分方法が用いられない事もあり、それらの扱いにおける差異も含めて、便所という設備を地域性に絡めて研究する者も多い。特に便所という施設に於いては、地域性が色濃く出る事もあり、便所を見れば国民性や社会の情勢が判ると云う人もある程だが、考古学の分野ではトイレ遺構のように当時利用されたトイレの遺跡より、そこに住んでいた者の暮らし振りや健康状態などを推測することが可能な、様々な情報が得られている。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

広義のスカトロジー [編集]
糞尿に愛着すら覚える特殊な性癖を持つ者を、糞尿研究者同様にスカトロジストと呼ぶが、前者が極めて個人的な趣味や嗜好であるのに対し、後者は純然たる研究者である。しかしいずれにせよ、同物品(糞尿)を極める事が最終目標である以上、(やや社会差別的な意味も含めて)世間一般にあまり区別されない事もある。

なお広義のスカトロジストにおいては、尿にのみ興味を覚える者や、極限まで排泄を我慢する事で排泄時の快楽を追及する者、前出の他人の行為に性的興奮を催す者など、様々な系統が存在し、それらが密接に関係しあって、多様なスカトロジスト文化を形成している。

著名なスカトロジスト [編集]
ジークムント・フロイト
近代心理学の父とされるフロイトは、人間精神の発達や人格形成の段階において、排泄行為が欠く事の出来ない要素であるとした。肛門期と呼ばれるこの期間には、排泄行為のセルフコントロールにより、欲求の抑制と更なる快感の増大を通して自己抑制の学習、更には性欲の萌芽が見られるとしている。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
著名なクラシックの作曲家として知られる彼は、従姉妹に排泄の快楽がらみの手紙を送ったことがあり、尻にキスをしろという歌曲も作曲している(『俺の尻をなめろ』K.231(382c))。当時の時代背景として、中世のキリスト教会の身体的快楽否定からの表現の自由が知識人達の間で模索されていたという文化事情も考慮すべきであろう。排泄欲も、当時の時代背景からは、食欲・性欲などと同列視されていた肉欲の1つであったのである。

2009年03月11日

リドー運河

リドー運河(英語:Rideau Canal、仏語:Canal Rideau)は、リドー水路とも呼ばれ、カナダのオタワ川が流れるオタワ市とオンタリオ湖畔のキングストン市とを結ぶ運河である。開通175周年にあたる2007年の第31回世界遺産委員会でユネスコの世界遺産に登録されることが決まり、オンタリオ州内で最初の世界遺産となった。

リドー運河は北アメリカで最も古くから使われている運河で、1832年に開通して以来、現在でも使われている。リドー川やカタラクイ川のほかいくつかの美しい湖を経由する。運河の運営・管理はパークス・カナダ(カナダ公園管理局)によって行われており、国定史跡に指定されているリドー運河は歴史と自然の保護区になっている。カヌーや沿道のサイクリングなどアクティビティも盛ん。

米英戦争の直後、イギリスの植民地であったアッパーカナダはアメリカ合衆国の軍事的な脅威に備えて、アメリカの侵攻を阻止するための要塞と領土を守るための運河を数多く建設した。そのうちのひとつがリドー運河で、当初はモントリオールとキングストンの区間を結ぶ物流輸送ルートを確保するのが目的であった。ニューヨーク州と接しているセントローレンス川は物資を供給するイギリスの輸送船が攻撃されたり、川を封鎖される危険があったため、川を迂回するルート(バイパス)としてリドー運河は建設された。

モントリオールからオタワ川で西へ進むとオタワに行くことができ、オタワから運河を経て南西に進むとオンタリオ湖畔のキングストンにたどり着くことができる。

米英戦争後、アメリカとカナダの間で起きた武力衝突はなく、リドー運河は当初の目的で利用されたことは一度もない。

運河建設の指揮はイギリス工兵隊のジョン・バイ中佐のもとで行われた。民間からは現場責任者としてジョン・レッドパスやトーマス・マッケイ、ニコル・テイラー・ヒュー・ベアードらが参加し、そして数千人のアイルランド人とフランス系カナダ人の労働者が建設に従事した。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

建設期間中に亡くなった労働者の数は定かではなく、一千人もの人々がマラリアやそのほかの病気、爆発などの事故によって亡くなった。これに拍車をかけたのが、運河完成後の失業とケベックシティからアッパーカナダにまで広がったコレラの流行でさらに死者が出た。中にはアッパーカナダに親族がいなかったことから身元不明のまま亡くなった労働者もおり、墓標のない墓に葬られた。それでも多くの労働者は生き延び、この土地に入植して農場や木材貿易を営んだ。

全長202km(125mi)あるリドー運河は途中、リドー川とカタラクイ川やいくつかの湖を経由し、およそ19km(12mi)が人の手で作られている。

今日、リドー運河は娯楽・観光用にのみ使われており、オタワ市内には運河を走る観光船がある。また船でオタワからキングストンまで下ることもでき容易に行くことができる。運河にある閘門の多くは今も手動で運営されており、運河に沿って24カ所に全部で47の閘門がある。

運河は通常、最高で船の長さ27.4m(90ft)、幅7.9m(26ft)、高さ6.9m(22ft)まで航行できるようになっている。特別な状況に限り船の長さ33.5m(110ft)、幅9.1m(30ft)まで対応可能である。

運河沿いの主な都市
オタワ
スミスフォールズ
メリックビル
ウエストポート
バタシー
キングストン
冬の時期、オタワの中央を流れるリドー運河は世界で最も長いスケートリンクへと変わる [3]。2005年8月にはギネス世界記録に登録され、世界最長であることが公式に認められた。スケートリンクは7.8km(4.8mi)の長さがあり、カールトン大学にある閘門から国会議事堂とシャトーローリエの間にある閘門まで続く。これはオリンピック用ホッケーリンクの90個分に相当する。観光名所のひとつとなっており、毎年スケートをしに100万人以上の観光客が訪れ、地元住民は通勤用に利用している。そして冬の大きなイベント「ウィンタールード・フェスティバル」(雪祭り)の会場にもなる。ほか、ビーバーの尻尾の形に似た「ビーバー・テイル」と呼ばれる揚げパンがあり、このエリアでよく売られている。

2009年02月22日

ハワイ語(?Ōlelo Hawai?i)

ハワイ語(?Ōlelo Hawai?i)は、オーストロネシア語族に属し、ハワイ諸島先住民のポリネシア人であるハワイ人の先祖代々の言語である。英語とともにハワイ州の公用語に指定されている。ハワイ語の特徴として、本来「t」と「k」を区別しなく、例えばWIKIPEDIA→WIKIPEKIAとなる。近縁のポリネシア語と同様に、用いられる音素が非常に少ないことである(後述する#ハワイ語のアルファベットの章を参照のこと)。この音素の「t」の発音はハワイ諸島のカウアイ島側の地域で一般的であり、「k」の発音はハワイ島(Big island)側の地域で用いられる。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

ハワイ語は、サモア語、マオリ語などのポリネシア語とごく近い関係にあり、一部のアジア南部やマダガスカルの言語ともやや遠い親類関係にあたる。

ハワイアンクリオールとも呼ばれるハワイの混成語は英語を元にした地域言語であり、ハワイ語や砂糖やパイナップル栽培に雇われた日本人や中国人を主とする移住民が持ち込んだアジアの言語からも一部の語彙を借用している。

ハワイ語のISO言語コードは haw である。
ハワイ語は現在消滅の危機に瀕している。ハワイ諸島のほとんどの地域ではハワイ語は英語にとってかわられており、ハワイ語は日常会話にはもはや使われていない。例外的にニイハウ島ではいまだ日常会話にもハワイ語を使っているが、それはニイハウ島が個人的に所有されている島であり、外部からの訪問を厳しく制限しているためである。

さまざまな理由により、ハワイ語を話す者の数は1900年ごろの約3万7千人から現在は約1千人にまで減少した。現在生存するハワイ語を母語とする話者の半分は70歳から80歳である。

ハワイ語復興運動
伝統あるハワイ語を復興しようとするハワイ先住民の努力は、ここ十数年のうちに増加してきている。ハワイ語を次の世代に残そうとする家族の子供たちのために、現在ハワイ語の没入法を行う学校が開校されている。また、ローカルラジオ局ナショナル・パブリック・ラジオは「きょうのハワイ語」(Hawaiian word of the day)という番組を放送している。

先住民系のハワイ人は第二言語としてハワイ語の学習を行っているが、モデルとする母語話者がおらず、ハワイ語のつづりも英語の音価に基づいて表記され英語の語順が用いられている。また、19世紀初期まで話されていた純粋なハワイ語を復活させようという人々と、英語や混成語との100年以上にわたる接触によって形作られたハワイ語で育った人々との緊張関係も見られる[要出典]。

また現在、ハワイ語はハワイ州の公用語の一つとされている。

ハワイ語のアルファベット
ハワイ語やポリネシア語のアルファベットは、ハワイ語では「ka pī‘āpā Hawai‘i(カピーッアーパーハワイッイ)」といい、19世紀につくられたラテン文字の変種である。これらは12の文字と1つの記号からなり、世界的にもアルファベットの少ない言語のひとつとなっている(ニューギニアのロトカス語のアルファベットはハワイ語より1文字少ない11文字、ピラハー語は2文字少ない10文字である)。

ハワイ語のアルファベットには母音としてa, e, i, o, u、子音としてp, k, m, n, w, l, h,‘がある。

オキナ
‘(または ` )はオキナ(‘okina)と呼ばれる声門閉鎖音である。wはvとして発音されることもある。例をあげると、Hawaiiは「ハワイ」とも読むが、本来なら「ハヴァイッイ」と読む。長音符はハワイ語ではカハコー(kahakō)と呼ばれ、母音の上に置くことで母音を延長する。長音には必ずアクセントが置かれる。英語と異なり、長さによって母音の発音が変わることはない。

オキナは正式には「?」 (Unicode,ʻ)を用いるが、対応していないフォントやウェブブラウザでは正しく表示されないので、シングルクォートの開き「‘」 (Unicode,‘)が妥協案。左に傾いた引用符 (backtick) や下側が太い引用符を使うこともしばしばある。

オキナを用いる例を挙げると、「Hawaii」は正式な表記では「Hawai?i」であり、「Oahu」は「O?ahu」となる。発音は[ha.?vai.?i]と[o.??a.hu](IPA)であり、ハワイ語のつづりからオキナで記述された声門閉鎖音を読み取ることができる。

音節
ハワイ語には162個の音節しかない。ほとんどの言語はもっと多くの音節のレパートリーを持つが、ポリネシア語にはさらに少ない音節のセットを持つものがある。

広く知られたハワイ語の単語
アロハ
ウィキウィキ(WikipediaなどのWikiの語源)
フラ
ホクレア
他、ハワイの地名の多くはハワイ語である。

2009年02月06日

王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)

島津侵攻から約50年後の1665年、羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。『羽地仕置』(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。

羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

中継貿易の衰退
幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。

1844年にイギリスとフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争(1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可する。

1847年、薩摩が琉球を英仏に開港した。

1853年には米国のマシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日(咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩?沿海州、対馬藩?李氏朝鮮、長崎?清・オランダ、薩摩藩?琉球?清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。

明治以降
琉球処分
1871年に全国で廃藩置県を実施(このとき琉球国を国家としてではなく令制国として扱い、鹿児島県に編入している)した日本の明治政府は、1872年(明治5)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。しかし清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。当時の東アジアの秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本とする華夷秩序によって形成されており、琉球も例外ではなかった。しかし、日本は「万国公法」の、近代的な「国民国家」の理論を適用し、日清重属であった琉球を取り込もうとした。日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害の報復として1874年(明治7)に台湾出兵を行なった。1879年(明治12)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。同年中に沖縄県を設置し、薩摩以前の宗主国である清国との関係を重視する王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。一部の抵抗者は清に亡命し、琉球回復の政治活動を行い、彼らは脱清人といわれた。しかし日本政府が最も危惧した清国の武力介入は結局行われず、琉球王国は中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅した。国王(正しくは藩王)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。第二尚氏家系は現在も続いている。

以上の、琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを琉球処分と呼び、琉球藩設置を第一次琉球処分、廃藩置県を第二次琉球処分ということもある。

清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13)、アメリカ前大統領グラントが仲裁に入り、沖縄県から先島諸島を分割し、清へ割譲する案がまとまった。しかし、清は態度を変えて条約に調印せず、結局、領有権問題の解決は1894年(明治27)の日清戦争後まで持ち込まれた。戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。

第二次世界大戦後、台湾に渡った中華民国政府(国民政府)は沖縄返還協定が結ばれた際にプロセスに参加できなかったことを不服として琉球の本土復帰を承認しておらず、また日中国交正常化に伴って日本と断交したため、正式には日本の琉球領有権を認めていない状態にある。現在でも政府文書などで時折日本と琉球が別の色で表示されている事などがある。中華人民共和国は日中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を声明しており、公式に日本の領有権を否定する発言を行ったことはない。

近代化政策
正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10?25年遅れて施行した。

1920年(大正9)に、南洋諸島が日本の委任統治になると、新天地を求めた住民が環境の似たこの地へこぞって移住した。また同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民した。第一次世界大戦による戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家ではソテツの実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、「ソテツ地獄」と呼ばれる状況となった。この貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土(大阪など)や南洋諸島、中南米への移民を促進することとなった

2009年01月22日

兵士との関係

近衛師団の通信隊員であった総山孝雄の回想録によれば、シンガポール陥落の時、イギリス兵相手だった売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、予想もしない人数を処理するという彼女らには未経験の種類の過酷な労働だったので、一人が4、5人目でもうできないと言い出し、当番兵が打ち切りを宣言したところ、戦闘が終わった後で列を成して待っていた兵士達が騒ぎだし、怯えた当番兵は、ベッドに縛り付けてそのまま兵士の相手をさせようとしたこともあったという。(その次の順番に当たって中に入った兵士(目撃者)が驚いて逃げ帰ったので、その後の情報はない)[54]
元兵士の伊藤桂一は慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである。」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している。[44]
吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている[37]。
北ビルマのミートキーナーの慰安所においては、日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚したものがいることが報告されている。[43]
このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある。[13]

「慰安婦」問題

概要
1970年代に、旧日本軍が戦地の女性を強制連行し、慰安婦にしたとする本が数冊出版された。[55]中でも、元陸軍軍人の吉田清治(本名:吉田雄兎)は『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白。そして、日本、韓国、アメリカなどで講演を行なったり、新聞やテレビなどのマスメディアに精力的も出演し[56]、裁判の証人としても朝鮮人の奴隷狩りを証言したり、1990年代には国連の人権委員会に働きかけるなど、この問題を世の中に大きく広めた。

韓国においては、吉田のこの著書は翻訳して出版され、史実としてドラマ化もされた。これらを受けて1990年、10年前から慰安婦の調査を行なって来た梨花女子大元教授の尹貞玉 (ユン・ジョンオク)がこの問題を新聞などのメディアで告発し、多数の女性団体が結集した「挺身隊対策協議会」を初めとして、様々な団体がこの問題に取り組み慰安婦問題が大きな運動になる。1991年には、韓国で元慰安婦が初めて名乗り出て、自らの体験を語った。その後も韓国、フィリピン、台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数出、日本の弁護士らの呼びかけで、日本政府に謝罪と賠償を求める訴訟がいくつも起こされるようになる。

日本ではこの問題の報道を『朝日新聞』が主導した。吉田の証言を紹介し、韓国の元慰安婦が名乗り出たこと、慰安所に対する旧日本軍の関与を示す資料が見つかったことなどと大々的に報じた。それらの報道は韓国でも伝えられ、反日感情が高まり、慰安婦問題は日韓の政治問題となっていった。 1992年 、反日デモが高まる中、訪韓した宮澤喜一首相は盧泰愚大統領との首脳会談で慰安婦問題について謝罪し、真相究明を約束する。政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとしたが、反日世論の中で韓国政府が受け入れなかったため、1993年、第二次の調査を行ない、その結果発表の際に、河野洋平官房長官がいわゆる「河野談話」を発表。慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」として、旧日本軍による強制連行を認め、反省とお詫びの意を示した。これにより、平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた慰安婦の記述がなされるようになり、やがて、中学校の歴史教科にも及び、ほとんどの歴史教科書で慰安婦についての記述が掲載されるようになって行った。

1995年、日本政府は慰安婦問題を認めた責任から、民間(財団法人)からの寄附という形で元慰安婦への支援を行うため、「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立したが、特に韓国ではあくまでも国家として賠償すべきと政府や元慰安婦支援団体の反対運動により、多くの元慰安婦が基金からの支援を拒否した。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

1996年、国連人権委員会に提出されたいわゆる「クマラスワミ報告書」と呼ばれる女性への暴力を取り上げた報告書において、慰安婦制度が国際法違反であると指摘され、日本政府は慰安婦に対する賠償すべきと勧告したのを初め、国際機関などにおいても、慰安婦問題への批判がなされる動きも出てきた。

1992年から、現代史家の秦郁彦(元日本大学教授)を初めとする歴史学者などが、吉田の証言やその経歴や著書において嘘や矛盾があると指摘していたが、1996年、吉田清治が自身の証言における「時」と「場所」はフィクションであることを明らかにしたことで、慰安婦の強制連行の大きな根拠とされて来た吉田証言への信憑性が揺らぐこととなる。そして、慰安婦の強制連行を認めない保守系の論客や、メデイアは、吉田証言を大きく取り上げて来た『朝日新聞』に対して、それまでの慰安婦報道において事実の歪曲があった[57]ということを含め、厳しい批判を浴びせた。このように軍による強制的に連行を裏付ける根拠が弱まった頃から、吉見義明が「強制連行」という「狭義の強制性」に対し、甘言や詐欺により慰安婦にされたことや、旧日本軍が慰安婦の某集や慰安所の慰安所での生活が強制的であったことも問題であるとし、これらを「広義の強制性」問題だとして批判し出したのをはじめ、そのような観点からの慰安婦制度への批判がなされるようになった。同年6月に文部省(現:文部科学省)が検定結果を公表した中学校教科書では全ての歴史教科書に慰安婦に関する記述がなされていた。これらを問題とした有識者らが同年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」(略称・つくる会)を発足、それらの教科書を「自虐史観」であると批判し、それらに対抗する新しい歴史教科書をつくる運動を精力的に進めることとなり、慰安婦問題は「歴史認識問題」、「歴史教科書問題」にもなっていった。「自民党」においても、若手議員らが、「つくる会」と同様に現在の日本の歴史認識を「自虐的」として修正を求める運動を始めるようになる。翌1997年には、「河野談話」発表に至る調査に関わった政府関係者が、強制連行の証拠となる資料は一切なかったが、韓国政府の強硬な要請に押され、政治判断として強制性を認めたことなどを明かした[58][32][33]ことから、証拠もなく、日本を不利な立場に立たせたとして、「河野談話」への批判[59][60]もなされるようになり、強制連行の有無などをめぐり激しい議論がマスメディアで繰り広げられるようになる。「河野談話」で強制性を認めた政府ではあったが、ときおり、自民党の議員が強制連行を否定する発言をしたことが報じられ、中国、韓国からの強い反発を招くということが繰り返されている。

2001年4月、「つくる会」の中学校歴史教科書が検定を合格したが、強い反対運動もあり、実際にはほとんどの中学校で採択されなかった。一方、同年に検定通過した他の教科書においては慰安婦の記述が減少し、1999年には中学歴史教科書からは「従軍慰安婦」という用語が消えた。
2006年、総理就任後間もなく、安倍晋三は内閣として「河野談話」を引き継ぐことを公言したが、後に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言したことが「河野談話」を否定するものではないかと国内外で大きな波紋を呼んだ。2007年、アメリカの下院で慰安婦をめぐる対日非難決議案の提出[61]が注目を集め、これを巡って日米間の政治問題ともなって来ている。