1894年に朝鮮半島で東学党の乱が起こると清は
1894年に朝鮮半島で東学党の乱が起こると清は上述の天津条約に従って通知を行い李氏朝鮮に出兵、日本も出兵してそれが日清戦争に発展する[26]。「眠れる獅子」と言われていた清は日清戦争で大敗し、翌1895年に下関条約で遼東半島・台湾を日本に割譲することや法外な戦争賠償金の支払いなどを認めた。これにより台湾に総督府が設置されることになり、日本の台湾統治が終戦まで続くことになる。自由民権運動が盛んになり、明治憲法も発布され、殖産興業も着実に進行し博覧会なども催されたが、その中の人類館での人種差別的な展示を巡って近隣アジア諸地域との間で問題がおきた[28]。また、尾崎行雄は新聞記者として清に赴き、現地取材などを通して「支那の未開さ」を根拠に大陸侵攻を強く主張した。一方、内村鑑三は当初戦争に対して肯定的であったものの、後に「非戦論」を唱えるようになった。また、北一輝は亜細亜モンロー主義を掲げてアジアを開放するのは日本だと主張した。これらに対して、内藤湖南は支那文化の独自性に着目して京都帝国大学で支那学の発展に寄与した。
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清国内では租界や租借地が形成されて「列強による分割」も加速度的に進行していた。それに取り残されていた米国のジョン・ヘイは門戸開放宣言を発し、支那の門戸開放・領土保全・機会均等を訴えて支那市場への介入を企てた。日本の明治維新を高く評価した黄遵憲の『日本国志』は、康有為らによる変法自強運動に大きな影響を与えたが、1898年に西太后による戊戌の政変が起きて沈静化した。